キリストは神です
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聖書を理解するかぎは、イエス・キリストという方にあります。歴史上、イエス・キリストほど人類に影響を与えた人は、他にありません。同時に、イエス・キリストのように、奥義的な存在もありません。はたしてナザレのイエスは、単なる偉大な指導者、聖なる人物の模範なのでしょうか? 彼は人に過ぎないのでしょうか?
約二千年前のイエスの誕生以来、これは人々の間で問いかけられてきた大きな質問の一つです。当時、イエスに反対するユダヤ人たちは、彼がヨセフの息子、ナザレの大工にすぎないと言いました。しかし、プロテスタントの改革者であるマルチン・ルターは「人であるイエスを捕らえなさい、そうすれば彼は神であることを発見するでしょう」と言いました。
聖書は以下の事実によってキリストが神であることを証明しています。
キリストの誕生:
聖霊の受胎、処女降誕
キリストの誕生は彼が神であることを証明します。キリストは処女マリアから生まれました(マタイによる福音書1:18)。その受胎は、聖霊を通してでした(マタイ1:20)。すべての人間は人の両親から生まれますが、イエスは聖霊と人の混ざり合いとして来られました。過去数百年間、このような出来事は科学的な法則に反すると言って、多くの人が処女降誕という歴史的事実を覆そうとしました。ところが、科学は自然現象を説明することができるだけです。すべての超自然的な現象は、科学の領域を超えています。確かに、宇宙の創始者であり、すべての科学的原則の創始者である神は、必ずしも自然の法則の枠内で行動しなければならない、というわけがありません。すべての人とは異なる存在である神が地上に来られるのでしたら、超自然的方法で来られることは不思議ではありません。
キリストご自身による宣言
イエスは地上におられた間、ユダヤ人たちに言われました、「アブラハムが存在する以前に、『わたしはある』」(ヨハネによる福音書8:58)。旧約聖書の出エジプト記3:14は、神の名は「わたしはある」(I AM WHO I AM)と告げています。偉大な「わたしはある」として、イエスは永遠にいつまでも存在する神です。
イエスはさらに神を「父」と呼びました。そしてご自身を神の御子と呼ばれました。他のどんな偉大な指導者も宗教の創始者も、自分が神であると主張した人はいません。神であると主張する人は、精神異常者か、偽り者か、神であるかのいずれかです。キリストは精神異常者ではありません。彼の言葉は知恵と冷静さを表しており、その言葉は今日に至るまですべての西洋文化の土台です。キリストは偽り者ではありません。偽り者はうそのために自分の命を犠牲にしようとはしないからです。残された唯一の可能性は、キリストは神であるということです。
キリストが行われた奇跡
キリストの奇跡は、彼が神であることを証明します。キリストはその三年半の務めの間に、らい病人をいやし、足の不自由な人をいやし、盲人を見えるようにし、死人を復活させ、悪鬼どもを追い出し、嵐を静め、五つのパンと二匹の魚で五千人を養い、水をぶどう酒に変え、海の上を歩きました。彼は自然界を支配する力を持ち、悪鬼を追い出す権威を持ち、ご自身が自然界にもサタンにも主であることを証明されました。
キリストの言葉
キリストの言葉は、彼が神であることを証しします。キリストが行われた奇跡以上に驚くべきことは、彼が語られた言葉です。歴史において、キリストの言葉ほど多くの人の人生に影響を与えたものはありません。ナポレオンは生前、兵隊たちに自分の主義のために死ぬように言うことができましたが、彼が死ぬとその言葉の影響力も死にました。ところが、キリストの死後二千年たった今日でさえ、全世界の至る所で、キリストのために喜んで生き、喜んで死ぬ人がいるのです。彼の言葉は世界中の本、図書館、会議所、学校などで引用されています。彼の語りかけの最もすばらしい部分は、その知恵と道徳の教えではなく、ご自身についての言葉です。
「わたしは道であり、実際であり、命である」(ヨハネによる福音書14:6)。
「わたしは復活であり、命である」 (11:25)。
「わたしは世の光である」(8:12)。
「わたしは命のパンである」 (6:48)。
多くの宗教的指導者は人に教理を教えますが、教える人とその教理は無関係です。たとえば、仏教は輪廻転生を教えますが、輪廻転生は仏教の教祖と関係がありません。しかし、キリストの教えは、まったくキリストというお方と関係があるのです。もしクリスチャンからキリストを取り去れば、もはや教理だけで、クリスチャンの信仰はありません。クリスチャンの信仰の焦点は、キリストが何であるかです。クリスチャンとは、宗教(教え)ではなく、キリストという一人のお方を信じる人であり、その信仰の源はキリストが語った言葉です。
キリストに罪がないこと
キリストに罪がないことは、彼が神であることを示しています。かつて、姦淫で捕らえられた一人の女がキリストの前に連れて来られました。当時のユダヤの律法によれば、姦淫で捕らえられた者はみな石で打ち殺されなければなりませんでした。人々はキリストを取り囲んで、彼を試みようとしました。そこで彼は「あなたがたのうちで罪のない者が、まず彼女に石を投げなさい」と言われました。人々はそれを聞くと、老人から始まって、一人また一人と去って行き、イエスだけが残されました。もし彼にも罪があったならば、このように大胆に人々に挑戦することはなかったでしょう。彼ご自身には罪がないので、このように人々に挑戦することができました。彼には罪がないということに反対することのできる人はいません。これは、彼が神であることを証明します。なぜなら、罪のない存在は神だけであるからです。
キリストが罪を赦す権威を持っていること
罪を赦すキリストの権威は、彼が神であることを証明します。キリストはご自身に罪がないだけでなく、他の人の罪を赦すこともできました。一人の罪の女がイエスに近づいた時、イエスは彼女に言われました、「あなたの罪は赦されている」(ルカによる福音書7:48)