人生の奥義(1)
「その奥義は、啓示によってわたしに知らされました」
エ ペソ3章3節
一、 人の生存の目的
あなたは考えてみたことがありますか? あなたは何のためにこの世に生きているのでしょうか? 人生の目的は結局
何でしょうか? あなたがどんなタイプの人であっても、あなたの職業が何であっても、幾つかのことはすべての人が認めています。
すなわち、
お金は人を満足させることができません。
学問も人を満足させることができません。
楽しみも人を満足させることができません。
成功も人を満足させることができません。なぜでしょう?
なぜならあなたはまだ認識していないからです。
二、 神の計画
神に一つの計画があります、この計画は人ととても大きな関係があります。この計画は、聖書の中で神のエコノミーと呼ばれています(注2)。
神のエコノミーとは人に対する神の計画全体のことです。それは人はどこから来て、どこへ行くのか、人生の意義は何であるのかを解き明かします。
どのようにして神のエコノミーを知ることができるでしょうか?
三、 四つのキー(かぎ)
神はあなたのために、神のエコノミーを開く四つのキーを用意されました。この四つのキーはすべて聖書に記載されています。この四つのキーはいずれも重要で、欠くことができません。
今どうかあなたの心を開いて、静かに注意深くこのホームページを読んでください。そうすればこの四つのキーを把握することができ、神のエコノミーがはっきりし、人の生存の意義を認識し、満ち足りた人生を踏み出すことができます。(注2)エペソ1:10「実現されるご計画にほかならない」(口語訳)の原文は「エコノミーへ至るためです」。エコノミーの原文は「Oikonomia」、神の計画を指す。
第一のキー 神の創造
人の存在の奥義を開く
一、 人は神のかたちをしています
どうぞ次の聖書の言葉を読んでください。
「神は言われた、『われわれのかたちに、われわれの姿に人を造り』。創世記1:26前半
神による人の創造は、彼による他のすべての創造とは異なっています。
神は人をご自身のかたちに造られました。
手袋は手のかたちに作られます。その目的は手を入れることです。
同じように、人は神のかたちに造られました、その目的は神を入れるためです。
二、人は器です
それでは次の聖書の言葉を読んでください。
神は「栄光へとあらかじめ用意しておられたあわれみの器に、彼の栄光の豊富を知らせようとされたとすれば、
どうなのですか?」。ローマ9:23
わたしたちは神の器です。
神はわたしたちの内容となりたがっています。
水のビンは水を入れるためにあります。
同じようにわたしたちは神を入れるためにあります。確かに、知識、富、楽しみ、成功はどれもあなたを満足させることができないはずです。なぜならあなたが造られたのは神を入れるためだからです!
三、人の分析
どうぞ続けて次の聖書の言葉を読んでください。
「あなたがたの霊と魂と体とを完全に守って、・・・くださいますように」。Ⅰテサロニケ5:23
人は神の器です。この器を聖書は三部分に分けています。霊と、魂と、体です。図を見てください。
体とは肉体のことです。生理学上の領域に属し、物質界の物事に触れ、最も表面的な部分です。
魂とは考える機関です。心理学上の領域に属し、心理の世界の事柄に触れ、より深い部分です。
霊は人の最も深い部分です。霊の領域に属し、神の事柄に触れます。
体に病気があれば医者にかかることができます。
心に病気があれば精神医にかかることができます。
しかし霊の問題は神だけが解決することができるのです。
四、神のエコノミー
神は人の霊の中に入り、
人の内容となり、
人の満足となりたがっています。
これこそ人の存在の意義です!
あなたが造られたのは、
ただ単に食物を胃の中に入れるためではありません。
また知識を頭の中に入れるためでもありません。
それは神をあなたの霊の中に入れるためです。
第二のキー 人の堕落
人の持つ善の性質と悪の性質との奥義を開く
一、人の二つの性質
人は神のかたちに造られました。このためすべての人に神の性質と一致する「善の性質」すなわち誠実、善良、美、
知性、親切、勇気などの美徳があります。
ところが、人の内にはまた「悪の性質」もあって、「善の性質」と争い合います。これは中国哲学のいわゆる「道理と欲の争い」です。古今東西を問わず、人の性質を認識している人たちは皆この事実を認めます。この「悪の性質」が聖書の言っている:
二、罪です
罪は人の内にあるので、人は良いことをしようと願っても、それを実行することができません。
どん欲、しっと、人殺しを願う人はありません。
おごり、高ぶり、欺きを願う人はありません。
いらだち、汚れ、情欲を願う人はありません。
ぐち、不平、のろいを願う人はありません。
ところが反対に、人にはこれらの「悪の性質」からのがれることができないのです。
どうか次の聖書の言葉を読んでください。
「わたしは自分の中に、すなわち、自分の肉の中に、善なるものが住んでいないことを知っています。なぜなら、わたしは善をしようと欲するのですが、善を行なうことはないからです」。ローマ7:18
「もしわたしが欲していないことを行なうなら、それを行なうのはもはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪です」。
ローマ7:20
これはまさに人の描写です.。
三、人の堕落
罪は人の内には入ってきて、人を堕落させました。図を見てください。
(一)罪は人の霊を死なせました
「ところであなたがたは、自分の違反と罪の中に死んでいて」。エペソ2:1
(二)罪は人の思いを背かせました
「かつてあなたがたは神から離れていて、悪い行ないのために、あなたがたの思いの中で敵であったのです」。
コロサイ1:21
(三)罪は人の体に罪を犯させました
「あなたがたは死ぬべき体の中で、罪に支配させて、体の情欲に従ってはなりません」。ローマ6:12
人は堕落しました。それはまるで:
一台のこわれたラジオのように、音楽を放送できないだけでなく、いつも雑音を発し、調節できません。
またちょうど:
みぞに落ちたコップのように、本来のすばらしい形は残っていても、今では泥にまみれています。
四、人は自分を救うことはできません
人は昔から、あらゆる方法を尽くし、罪を犯すことから逃れようとしてきましたが:
良い行ないをすることは罪から人を救い出すことができません。
教育は罪から人を救い出すことができません。
道徳は罪から人を救い出すことができません。
お経を読むことは罪から人を救い出すことができません。
仏像を拝むことは罪から人を救い出すことができません。
人生の描写は、まさに善の性質と悪の性質が互いに争っている絵です!